私が理不尽なことばかりに遭遇していた理由とは

 

私、先日、どえらい目に遭いました。
しかも全く身に覚えがない事。

 

○○と言った事が
その人の中でいつのまにか熟成され、
発酵し、何かが形が変わって
全く別の物に変換され
△△になり、あなたにこんなことを言われた
と私がその方にとんでもなく失礼な事を言った
と出来事が変わっていて、
もの凄い剣幕で怒鳴っていました。

 

辻斬りか、
はたまたテロリストか。。。
私はまったくもって心当たりがなく
というか私は△△という言葉を
発する事がないし言う必要もないし
言う事もないし。

 

というのも私の概念には△△を人に言う
という価値観が存在してないからです。
伝言ゲームみたいな物で
リンゴといったことが
いつのまにかうんこに変わっていて
どこでどうそうなったの???的なことが
一人の人間の中に起きてしまったのでしょうかね。。。

 

でもそれは
過去に自分が遭遇した色んな場面や
無念だった想い、
価値観や思い込みフィルターが
そう変換させているのだとおもうので
どうしたのかな〜何が起きたのかな〜と
しばらく様子を見ていました。

 

それはよくある話しで
わたしにももちろんあります。
ですが、それは大抵自分の中の問題で
出来事は無色透明。

 

それにどんな色をつけているかは
自分の価値観や物の見方
捉え方が全て変えてしまうのもよくわかっているので
感情が沸々と湧いた時には
自分を振り返るようにしています。

 

私の何が傷ついたのだろう?
私が大切に思っている事は何だろう?
私が絶対に譲れないとおもってる価値観はなんだろう?
そうやって
自分を振り返って
内観するのがクセになっています。

 

 

なので、その状況をしばらく俯瞰していたのですが
ふと懐かしい感覚になりました。
あ〜
こういうのよく学校であったな〜
理不尽な理由で何かの犯人にさせられたり
身に覚えのない事で仲間はずれにあったり
一方的に暴言を吐かれたり
濡れ衣を着せられて罪人扱いになったり

 

そしたら急に悲しくなって来て
涙があふれてきました
嗚咽するくらい泣いたのですが
幼い事からずっとしまいこんでいた
「私は理不尽な目に遭う」が
やっと外に出て来たのかもしれません。

 

ここ最近は本当に人に恵まれていて

「私は理不尽な目に遭う」
「意味なく人に嫌われる」

を振り返るタイミングがなかったのですが
実は私の中では核となる価値観とリンクしていたので
強烈体験ではありましたが
にょきっとこのタイミングで
この出来事が起きたのでしょう。

 

あ〜私は理不尽さをただただ受け止めて来たけど
これからはこういうの、要らないって
言っていいいんだ。

 

違いますって
自分の意志を伝えていいんだ。
私違いますって
スルーして良いんだと
新たな発見がありました。

 

 

どこかしら
私が悪い、私がなにかした。
私が諸悪の根源、なんて
思い込みがあったので
今まではそう言うテロみたいな出来事が起きても
ただただ受け止めることしか
せずに、自分を大事にしていませんでした。

 

がまんしなさい、わたしが悪いんだから。
そんな自己卑下も手伝って
私は私を大事にしていませんでした。

 

だけれど
人の感情を受け止める必要もないし
人の価値観や世界観に沿わなくていいし
違う物は違うと言っていいし
スルーして良い事に氣づいて
本当に大きな収穫でした。

 

憎い!といわれたとしても
身に覚えのないことを言われても
それは受け取らなくて良い。
お釈迦様もおっしゃってましたが
欲しくないプレゼントは受け取らなくてよい

 

『もし、他人に贈り物をしようとして
その相手が受け取らなかった時、
その贈り物は一体誰のものだろうか?』

 

『あなたが私に言った事を
私は少しも受け取らなかった。
だから、あなたが言った事は
全てあなたが受け取る事になるんだよ。』

 

受け取らない。
これはもの凄い成長だとおもいます。

 

てれれれってってって〜(ドラクエのレベルアップの音)
せしぼんは「スルー」を覚えた。